洋菓子を食べるスケルトン
緊急事態宣言解除後の昨4日、外歩きが好きな息子夫婦が、美味しいと評判の某洋菓子店を覗いたところ、珍しい飾り物があったと言うことで、スマホの写真を送ってくれた。
面白いので、ブログに投稿の可否を訊ねたところ、OKと言うので、今日載せて見た。 なお、今日、北京五輪のテスト大会に出発した、日本のスケルトン競技の選手には申しわかないが、ご勘弁を蒙りたい。
写真は、ご覧の通り二個の骸骨(スケルトン)が向かい合ってテーブルに座り、何やら互いに話しかけながら、ケーキを食べているようなものだった。
多分、今月末に行われるハロウインの行事の期間、宣伝のために置いたものだろうとは思うが、広告としては、子供には恐ろしくもあり大人にはユーモアがある等、非常にパンチ力がある。
骸骨にはあまり良い印象は浮かばないが、仏教では”無常”を表すものとして丁寧に扱われているようだ。
私は無宗教なので、どの宗派も信心はしていないが、物の考え方としては、自力の修行(瞑想)で、「豁然大悟」や 「心身脱落」を経て悟りを得る禅宗と、「本願を信じて念仏申さば仏となる」の他力を信じる浄土真宗とには興味がある。
室町時代に、一休宗純と言う臨済宗の禅宗の坊さんが、杖の上部に髑髏を取り付けて、人々が新年を迎える喜びの中で正月を過ごしている時に、「ご用心、ご用心」と大きな声で叫びながら町中を歩いたとも聞く。
安土桃山時代に生きた浄土真宗の蓮如上人も、所謂、白骨の章で、「…されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり…」と説き「…さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。」と述べている。
また、宗教学者の山折哲雄さんが、飄逸の本願寺(浄土真宗)上人と呼ぶ、坊さんであり俳人でもある昭和時代の”大谷句仏”さんは、「露の世や元の雫は髑髏(されこうべ)」と詠んでいる。
昔は、死人を穢れたものとして扱ったが、昨今は、焼いて残ったものは単なる酸化カルシュームだと割り切る人たちも多い。 だから、家族葬などが普及するのは、当然だと私は思っている。
まぁ、意表を突くこの広告には、されこうべではなく、首(こうべ)を深々と下げて、この企画はお見事と褒めたい。